国家 プラトン
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国家

プラトン

読みやすい現代語・全十巻抄訳

ベンジャミン・ジョウェット英訳をもとに、対話と論証の流れを残して読みやすくまとめた全十巻の現代語抄訳です。

第一巻

正義とは何か

ソクラテスはグラウコンとともに、港町ピレウスの祭りを見物した帰りだった。そこへポレマルコスたちが現れ、半ば強引に家へ招く。家には年老いた父ケパロスがいた。ソクラテスが老いについて尋ねると、ケパロスは答えた。「老いそのものが苦しいのではない。欲望に振り回されなくなり、穏やかになれる。性格が節度あるものなら、老いも耐え難いものではない」。財産については、不正をせず借りを返して死ねる安心を与えてくれる、と語る。

そこで正義の話になる。ケパロスは「真実を語り、借りたものを返すこと」と考える。しかしソクラテスは、正気を失った友人から武器を預かり、その友人が返せと言ってきた場合を挙げる。返せば人を傷つけるかもしれない。だから、何でも正直に返せば正義になるわけではない。

ポレマルコスは詩人シモニデスにならい、「友には利益を、敵には害を与えるのが正義だ」と主張する。ソクラテスは問い返す。私たちは友と敵を取り違えることがある。また、正しい人が人を害すれば、その相手をさらに悪い人間にしてしまう。音楽家の仕事が人を音痴にすることではないように、正しい人の仕事が人を不正にすることであるはずがない。正義が誰かを害することだとは考えられない。

議論を聞いていたトラシュマコスが割り込み、「正義とは強い者の利益にすぎない」と言う。どの国でも支配者は自分に都合のよい法律を作り、従う者を正しいと呼ぶ。しかも大規模な不正を行う独裁者は、罰せられるどころか幸福だと見なされる、と彼は主張する。

ソクラテスは、支配者も判断を誤り、自分に不利な命令を出すことがあると指摘する。さらに、医術が医者の利益ではなく患者の健康を目指すように、技術は本来、その対象の利益を目指す。統治という仕事も、本来は統治される人々の利益を考えるはずだ。優れた人が政治に関わるのは、権力や報酬を欲するからではなく、もっと悪い人物に支配されるのを避けるためである。

不正な集団は内部でも争い、完全には協力できない。正義は魂をよく働かせ、不正は魂を分裂させる。だから正しい人のほうがよく生き、幸福だろう。しかしソクラテスは最後に認める。「私たちは、そもそも正義が何であるかをまだ十分に定めていない。正義が幸福をもたらすかを急いで論じたため、結論はまだ不完全だ」。


第二巻

なぜ正しく生きるのか

グラウコンは議論に満足しない。善いものには三種類あると言う。喜びのように、それ自体を望むもの。医療のように、結果のために我慢するもの。そして知識や健康のように、それ自体も結果も望ましいものだ。ソクラテスは正義を第三の、最も価値ある種類に置く。しかし多くの人は、罰や悪評を避けるためだけに正しく振る舞っているのではないか、とグラウコンは迫る。

彼は「ギュゲスの指輪」の物語を語る。姿を消せる指輪を手に入れた羊飼いは、誰にも見つからず王を殺し、王妃を奪って国を支配した。正しい人と不正な人の両方にこの力を与えれば、二人とも同じことをするのではないか。正義が選ばれるのは、不正を行う力がないからではないか。さらに、完全に不正なのに正しいと評判の人と、完全に正しいのに不正だと誤解される人を比べても、後者が幸福だと言えるのか。

アデイマントスも加わる。親や詩人は正義そのものではなく、正義によって得られる評判・地位・神々からの褒美ばかりを褒める。これでは、人目さえ欺けるなら不正を選ぶほうが得だと若者が考えてしまう。正義が魂そのものにどんな善を与え、不正がどんな害を与えるのかを示してほしい、と二人は求める。

ソクラテスは、個人の魂より大きな国家の中で正義を探せば見つけやすいと提案し、言葉の上で一つの国を作り始める。人は一人では必要なものをすべて作れない。食料を作る者、家を建てる者、服を作る者が分業し、それぞれが得意な仕事に専念すれば共同体が生まれる。必要なものだけで満足する簡素な国なら、健康で平和に暮らせる。

しかしグラウコンは、それでは質素すぎると言う。ぜいたく品、芸術、娯楽、召使いなどを加えると国は大きくなり、土地が足りなくなって戦争が起きる。そこで国を守る「守護者」が必要になる。守護者には、敵には勇敢で、味方には穏やかな性格が求められる。誰が味方かを知識によって見分ける点で、守護者は哲学的でもなければならない。

守護者の教育は、物語と音楽で心を、体育で身体を育てる。幼い時に聞く物語は魂の形を作るため、神々を気まぐれで残酷な存在として描く話や、死を恐れさせる話をそのまま教えるべきではない。神は善い存在であり、善いものの原因である。教育は、勇気・節度・真実を愛する心を育てるものでなければならない。


第三巻

守護者をどう育てるか

守護者が死を恐れず務めを果たすためには、死後の世界を恐怖だけで描く物語を避ける必要がある。英雄が嘆き続け、神々が欺き合う話も、無批判に模範としてはいけない。若者は演じる人物に似ていくので、卑劣さや節度のなさを繰り返し演じさせず、勇気と誠実さを身につけさせる。

音楽では、悲嘆や酒宴をあおる調べより、困難に耐える人と平穏に説得する人の調べを選ぶ。美しい形、よいリズム、調和のある言葉に囲まれれば、若者は理屈を理解する前から美しいものを愛し、醜いものを嫌うようになる。体育も単なる筋力づくりではなく、気概を整える教育である。音楽だけなら柔弱になり、体育だけなら粗暴になるため、両者を調和させなければならない。

医術や裁判が増え続ける国は、人々の生活が乱れているしるしでもある。もちろん治療は必要だが、不摂生を続けるためだけの医療に人生を支配させるべきではない。裁判官は悪を自ら経験して学ぶのではなく、善い魂を持ち、知識によって悪を見抜くべきである。

守護者の中から、どんな時にも国全体の利益を守る者を選び、統治者とする。幼い頃から試し、苦痛・誘惑・恐怖の中でも信念を失わない者だけが選ばれる。ほかの守護者は補助者として統治者を支える。ソクラテスは人々の団結を促すため、人は同じ大地から生まれ、魂には金・銀・鉄や銅にたとえられる異なる適性が混ぜられている、という「高貴な作り話」を提案する。身分は親から自動的に受け継がず、能力に応じて役割を変えるべきだという意味も込められている。

守護者は権力を私物化しないよう、必要以上の財産・私邸・金銀を持たず、共同で生活する。守る者が金儲けに夢中になれば、市民の味方ではなく主人や敵になってしまう。幸福は一つの階級だけに富を集めることではなく、国全体がよく働く状態にある。


第四巻

国家と魂の正義

アデイマントスは、財産を持たない守護者は幸福ではないのでは、と問う。ソクラテスは答える。国を作る目的は一部の人だけを最大限幸福にすることではなく、全体を調和させることだ。目だけを特別に美しく塗っても像全体が美しくならないように、一つの階級だけをぜいたくにしても国家全体はよくならない。富も貧困も仕事を劣化させるため、国が極端な格差に分裂しないよう守る必要がある。

完成した国には四つの徳が見つかる。知恵は、国全体を判断する統治者の知識にある。勇気は、何を恐れるべきかについて教育された信念を、苦痛や欲望の中でも守る補助者にある。節制は、誰が治めるべきかについて、上から下まで同意している調和である。そして正義は、一人ひとりが自分に適した役割を果たし、他人の仕事を奪わないことにある。

同じ構造は個人の魂にもある。喉が渇いて飲みたいと思う一方で、健康のために飲むべきでないと考えることがある。したがって魂には、欲望する部分と、考えて判断する理性的な部分がある。さらに、不正を見て怒り、名誉を求める「気概」の部分もある。気概は正しく育てられれば理性の味方となり、欲望を抑える。

個人の知恵は理性が全体を導くこと、勇気は気概が理性の判断を守ること、節制は三つの部分が理性の指導に同意することである。正義とは、魂の各部分が自分の役割を果たし、互いに支配権を奪わない状態だ。不正とは魂の内乱であり、欲望や怒りが理性を押しのける状態である。正しい行為は魂を健康にし、不正な行為は魂を病ませる。身体を壊してまで生きる価値がないのと同じく、魂を壊して得る権力や富にも価値はない。


第五巻

哲学者が治める国

ソクラテスが政治体制の話へ進もうとすると、仲間たちは守護者の家族制度をもっと説明するよう求める。彼は、常識に逆らう三つの大波を越えなければならないと言う。第一は、女性の守護者も男性と同じ教育と仕事を担うことだ。男女には一般的な身体差があっても、統治や防衛に必要な能力は性別だけで決まらない。適性のある女性には音楽・体育・軍事・哲学を同じように学ばせるべきである。

第二の波は、守護者が私的な家族を持たず、配偶と子どもを共同のものとする構想である。統治者は優れた資質が残るよう結婚を管理し、子どもは共同で育てられる。現代から見れば強い問題を含む提案だが、ソクラテスの狙いは、守護者が「自分の家族」だけを優先して国を分裂させることを防ぎ、喜びと悲しみを共有する一つの共同体を作ることにある。

第三にして最大の波は、「哲学者が国を治めるか、現在の支配者が真に哲学を学ばないかぎり、国家にも人類にも不幸はなくならない」という主張である。哲学者とは、珍しい知識を集める人ではない。美しいものの例だけでなく「美そのもの」を、正しい行為の例だけでなく「正義そのもの」を求め、変わらない本質を知ろうとする人である。

目に見える多数の事物についての判断は、無知と知識の中間にある「意見」である。真の知識は、状況によって変わる個々の例を越え、そのものをそのものにしている本質へ向かう。現実の国で哲学者が役に立たないように見えるのは、航海術を知らない船主と、操舵権を奪い合う船員たちが、本当の航海者を役立たずの星空眺めと呼ぶようなものだ。必要なのは哲学者の知識でありながら、社会の側がそれを用いようとしていないのである。


第六巻

善のイデア

真の哲学者は、真実を愛し、嘘を嫌い、学ぶことに飽きず、節度と広い視野を持つ。だが優れた素質は、悪い環境の中ではかえって大きく堕落する。称賛・富・権力に囲まれた若者は、自分が何でもできると思い込み、哲学から引き離される。偽物の哲学者がその空席を埋めるため、哲学そのものまで評判を落とす。少数の本物は、嵐の中で壁の陰に身を寄せる人のように、不正へ加わらず自分の魂を守る。

哲学者が統治に適することを示すため、ソクラテスは「船の比喩」を語る。大きく力はあるが航海術を知らない船主を、船員たちが取り囲み、操舵権を争っている。本当の航海者は、季節・風・星・海を学ぶ必要があると言うが、船員たちは彼を役立たずと呼ぶ。国も同じで、人気取りと権力争いの中では、知識を持つ人が不要に見えてしまう。

統治者が最も深く学ぶべきものは「善」である。正義や知識でさえ、善との関係が分からなければ完全には理解できない。ソクラテスは善そのものを直接説明する代わりに、「太陽の比喩」を用いる。目が物を見るには視力と物だけでなく光が必要で、その光を与えるのが太陽である。同じように、魂が真実を知るには知性と対象だけでなく、理解可能にする善が必要になる。善は知識と真理を生みながら、それらよりもさらに高い。

次に一本の線を二つに分け、さらにそれぞれを分ける。下から、影や像を扱う想像、目に見える物を信じる信念、仮定から進む数学的思考、そして仮定そのものを問い直して原理へ上る哲学的理解がある。教育とは情報を詰め込むことではなく、魂を暗いものから明るいものへ向け直し、善を見る力を働かせることなのである。


第七巻

洞窟の比喩と教育

ソクラテスは人間の教育状態を洞窟にたとえる。人々は幼い頃から洞窟の奥で鎖につながれ、正面の壁しか見られない。背後には火があり、その前を人形や道具を持った者が通る。囚人たちが見ているのは壁に映る影だけで、聞こえる声も影から出ていると思っている。彼らにとって影こそが現実である。

一人の鎖が外され、後ろを向かされる。火の光は目に痛く、これまでの影のほうが本物に思える。無理に洞窟の外へ連れ出されれば、最初は何も見えない。やがて水面の像、地上の物、星と月を見て、最後に太陽そのものを見る。そこで太陽が季節を作り、見える世界を成り立たせていると理解する。以前の洞窟で影を言い当てて褒められる生活より、貧しくても真実の側で生きたいと思うだろう。

しかし彼が洞窟へ戻ると、暗さに目が慣れず、影をうまく見分けられない。囚人たちは、外へ行ったため目を壊したと思い、鎖を外そうとする者を殺そうとさえする。これは、教育を受けて真実を見た者が社会へ戻った時の姿である。学んだ人が日常の争いに不器用だからといって、知識が無価値なのではない。明るい場所から急に暗い所へ戻った目も、暗闇から光へ出た目も、一時的に見えないだけだ。

教育は、見えない目に視力を入れることではない。魂にはすでに学ぶ力があり、その向きを欲望や見かけから真実へ回転させることだ。計算、幾何学、天文学、音の理論は、感覚だけに頼らず、変わらない関係を考える訓練になる。その上で対話による哲学、すなわち前提を問い、物事の根拠へ進む弁証法を学ぶ。

選ばれた者は若い時に基礎教育を受け、三十歳ごろから弁証法を慎重に学び、その後は現実の仕事を経験する。五十歳になり、知識と経験の両方を備えた者が善を見つめ、順番に国を治める。哲学者は権力を欲しない。だからこそ、自分の利益のために支配する者よりよく治められる。洞窟の外に留まるのではなく、仲間を助けるため再び下へ戻ることが求められる。


第八巻

国家が堕落していく順序

最善の国にも変化は起こる。教育や人材選びが崩れると、知恵より名誉と勝利を愛する者が支配し、「名誉支配制」になる。その国に似た人は、理性より気概が強く、表向きは厳格だが、ひそかに富を愛する。家庭では、公共心のある父が無力だと批判され、息子が競争と名誉を重んじるようになる。

やがて金持ちが力を持ち、財産額によって支配者を決める「寡頭制」になる。金儲けと徳を同時に最高のものとすることはできない。富が尊ばれるほど善さは軽く見られ、国は金持ちと貧しい人の二つに分裂する。必要な仕事に適した者ではなく、金を持つ者が統治する。財産を失った人々は社会から排除され、不満と犯罪が増える。

貧しい多数派が支配者を倒すと「民主制」になる。自由と平等が広がり、さまざまな生き方を選べる、魅力的で色彩豊かな国である。しかし自由が唯一の価値になると、必要な欲望と不要な欲望の区別まで失われる。経験も知識もない者が、人気さえあれば統治者になれる。父は子を恐れ、教師は生徒にへつらい、法律による制限は奴隷的だと嫌われるようになる。

過度の自由から、最も厳しい隷属が生まれる。混乱の中で、民衆の味方を名乗る指導者が現れ、敵を作って財産を分配し、護衛を求める。権力を得ると反対者を追放し、戦争を起こして人々を自分に依存させる。やがて優れた仲間まで恐れて排除し、最悪の者だけに囲まれた「僭主」となる。国家の変化は、理性から名誉へ、名誉から富へ、富から無制限の自由へ、自由から欲望の独裁へという魂の変化でもある。


第九巻

誰が本当に幸福なのか

人の中には、普段は理性と習慣に抑えられている無法な欲望がある。夢の中では、どんな残酷なことも恥ずべきことも平気で行う。節度ある人は、眠る前に理性を静め、欲望を満たしすぎず飢えさせすぎず、怒りも落ち着かせる。だが僭主的な人は、強い欲望を主人として育て、恥・法律・親への敬意を追い出してしまう。

僭主は自由に見えて、実は最も不自由である。一つの欲望に支配され、それを満たすため友人・家族・国を裏切る。外では多くの人を支配しても、内心では恐怖に囲まれ、信頼できる友もなく、常に敵を疑う。国家としての僭主制が最も悲惨であるように、魂としての僭主も最も不幸である。最も正しい哲学的な人は、魂の各部分が調和しているため最も自由で幸福である。

魂の三部分には三つの喜びが対応する。欲望は金や身体的快楽を、気概は勝利や名誉を、理性は学ぶ喜びを求める。それぞれの人は自分の喜びを最高だと言うが、三種類すべてを経験し、比較するための知性も持つ哲学者の判断が最も信頼できる。身体的快楽の多くは、苦痛が止まっただけの状態を純粋な喜びと取り違えている。真実を知る喜びのほうが、より実在するものによって魂を満たす。

ソクラテスは魂を、いくつもの頭を持つ獣、ライオン、人間が一つになった姿にたとえる。不正をして利益を得るとは、内なる獣を太らせ、人間を弱らせることだ。正しく生きるとは、内なる人間がライオンを味方につけ、欲望を飼いならし、全体を調和させることだ。大切なのは外からどう見えるかではなく、自分の内側に最善の国を作ることである。


第十巻

詩、魂、そしてエルの物語

ソクラテスは詩と模倣の問題へ戻る。職人が作る寝台は「寝台そのもの」という本質を手本にした個物であり、画家が描く寝台はその見かけを写した像である。模倣芸術は真実から遠く、対象が実際にどう働くかを知らなくても、見る角度や言葉の力で知っているように見せられる。詩人ホメロスが政治や教育の真の専門家だったなら、その知識によって現実の国や人々をよくした証拠があるはずだ、とソクラテスは問う。

悲劇や詩は、理性なら抑えるはずの嘆き・怒り・笑いを安全な観客席で楽しませる。しかし他人の悲しみに感情を任せる習慣は、自分の不幸の時にも感情を支配しにくくする。だから理想の国では、神々への賛歌と善い人への称賛を除き、模倣詩を慎重に扱う。ただしソクラテスは、詩が人間をよくするという弁明を示せるなら、喜んで迎え入れたいとも言う。哲学と詩の争いを、単なる敵意で終わらせてはいない。

魂は不正によって悪くなるが、不正そのものは魂を消滅させない。身体の病が身体を滅ぼすように、そのもの固有の悪で滅びない魂は不死だとソクラテスは考える。正義はこの人生の中だけでも魂を整え幸福にするが、死後にもその結果が続く。そこで最後に、戦死して十二日後に生き返った兵士エルが見た世界が語られる。

死者の魂は生前の行いを裁かれ、正しい者は上方で報いを、不正な者は下方で罰を受ける。長い旅の後、魂たちは次の人生を自分で選ぶ。選択肢には王、私人、動物、貧者、富者など多くの生があるが、選ぶ順番が早いだけでは幸福になれない。前世で徳を習慣だけに任せ、考えることを学ばなかった者は、見かけの華やかさに惑わされて僭主の人生を選ぶことがある。苦労を知る者が慎重に静かな人生を選ぶこともある。

選んだ責任は神ではなく本人にある。どんな境遇でも、正義と不正を見分け、魂をよりよくする人生を選ぶ知識が必要だ。魂たちは運命を定められ、忘却の川の水を飲んで地上へ生まれ変わる。ソクラテスは結ぶ。「この物語を信じ、魂を汚さず、正義と知恵の道を歩もう。そうすればこの世でも、死後の旅でも、私たちは自分自身とも神々とも友でいられるだろう」。

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