ニコマコス倫理学
読みやすい現代語抄訳・幸福とよく生きること
英語底本をもとに、全巻の流れと主要内容を残して読みやすくまとめた現代語抄訳です。
第一巻 幸福とは何か
あらゆる技術、研究、行為、選択は、何らかの善を目指している。医術は健康を、造船は船を、戦略は勝利を目指す。しかし目的にも上下があり、馬具を作る目的は乗馬に、乗馬は軍事に従う。もし私たちが、それ自体のために望み、ほかのすべてをそのために望む最終目的を持つなら、それこそ最高善である。人生の標的を知れば、弓を射る人のように正しい方向を選びやすい。
最高善の研究は、個人だけでなく市民全体の善を扱う政治学に属する。ただし倫理の問題に、数学と同じ精密さを求めてはいけない。正しさや利益は状況で変わるため、ここでは多くの場合に成り立つ大まかな真実を扱う。若い人は年齢よりも、欲望のままに生きて経験を生かせないという意味で、この学問のよい聞き手になりにくい。目的は知識ではなく、実際に善く行うことだからである。
多くの人は最高善を「幸福」と呼ぶが、その中身について意見が分かれる。快楽、富、名誉を幸福とする人もいる。だが快楽だけの生活は家畜に近く、富は別の目的のための手段であり、名誉は与える側に左右される。アリストテレスの「善そのもの」があるとしても、医者や船長が必要とするのは、それぞれの場面で実現できる具体的な善である。
人間の働きは、ただ生きることでも感覚を持つことでもない。理性を用いて活動することが人間に固有である。したがって幸福とは、徳に従って魂がよく活動すること、それも一時ではなく完全な生涯を通して続くことだ。立派な性格だけを持って眠り続けるのではなく、実際に働かせなければならない。健康・友人・最低限の財産など外的条件も必要だが、幸福の中心は運ではなく、私たちがどのように活動するかにある。
第二巻 徳は習慣によって作られる
知的な徳は主に教育によって育ち、時間と経験を必要とする。性格の徳は習慣によって育つ。石が下へ落ちる性質を何度投げ上げても変えられないように、生まれつき決まった性質を習慣で逆転させるのではない。人間は徳を受け入れる素質を持って生まれ、それを繰り返しの行為によって完成させる。正しい行為を重ねて正しい人になり、節度ある行為を重ねて節度ある人になる。
ただ正しい行為と同じ動作をしただけでは十分でない。何をしているかを知り、その行為そのものを選び、安定した性格から行わなければならない。徳のある人は正しいことを苦痛だけで行うのではなく、ふさわしい喜びを感じる。だから幼い頃から何に喜び、何を苦痛とするかを教育することが決定的に重要である。
徳は感情や能力そのものではなく、選択を形づくる安定した性格である。恐れ、自信、欲望、怒り、憐れみは、多すぎても少なすぎてもよくない。ふさわしい時に、ふさわしい相手へ、ふさわしい目的で、ふさわしい仕方で感じ行うのが「中庸」である。勇気は無謀と臆病の間、節制は放縦と無感覚の間にある。ただし中庸は計算上の真ん中ではなく、状況と人に応じて理性が定める最適点だ。殺人や姦通のように、行為そのものが悪いものには適度な中間はない。
第三巻 選択・勇気・節制
責任を考えるには、自発的な行為と強制された行為を分けなければならない。外から完全に強制され、本人が何も寄与しない行為や、重要な事実を知らずに行った行為は非自発的である。ただし嵐の船から荷を捨てるような行為は、普通なら望まないが、その場では自分で選んだ「混合的」な行為である。酔いや怒りによる無知まで、責任を消す理由にはならない。
選択は欲望や願望とは違う。私たちは不可能なことを願えるが、選ぶのは自分の行為で実現できる手段である。医者は健康そのものを協議せず、健康へ至る手段を考える。目的から逆向きに手段をたどり、自分に可能な最初の行為を決める。性格は行為の積み重ねで作られるため、徳も悪徳もある程度まで自分の責任である。
勇気は、最も恐ろしいもの、特に立派な目的のための死を正しく恐れ、耐える徳である。恐れを知らないことではなく、恐れるべきものと耐えるべきものを理性に従って見分ける。名誉、罰、経験、怒り、勝利への期待によって勇敢に見える行為もあるが、徳としての勇気は善い目的をそれ自体のために選ぶ。節制は主に身体的な快楽、特に触覚や味覚への欲望を整える。節制ある人は快楽を憎まず、健康で美しい生活に必要なものを、必要な時に適度に望む。
第四巻 日常に現れる性格の徳
金銭の扱いでは、気前のよさが浪費とけちの間にある。気前のよい人は、正しい相手へ正しい額を喜んで与え、不正な方法で得ようとしない。莫大な公共事業や祭典を美しく支える「壮大さ」には、単なる出費ではなく、目的にふさわしい規模と品位が必要である。
名誉に関しては、自分が大きな価値にふさわしいと正しく判断する「高邁さ」がある。高邁な人は名誉に執着せず、権力者にへつらわず、危険をむやみに求めないが、大切な場面では命を惜しまない。自分を過大評価する虚栄とも、過小評価する卑下とも違う。ただし真に高邁であるには、ほかの徳も備えていなければならない。
怒りには温和さ、会話には親しさ、自己表現には真実さ、娯楽には機知という中庸がある。何にも怒らないことが善いのではなく、正しい理由で正しい相手に、適切な時間だけ怒る。誰にでも迎合するのでも、いつも争うのでもなく、相手と場面に応じて接する。自分を誇張も卑下もせず、冗談で人を傷つけず、堅苦しすぎもしない。徳は壮大な英雄行為だけでなく、金・名誉・怒り・会話の細部に現れる。
第五巻 正義と公平
広い意味の正義は、他者との関係で徳全体を実行することである。法律が共同体の幸福と徳を目指すなら、法に従うことは勇気や節制を他者のために使うことになる。正義は「他人の善」と関係するため、徳の中でも完全だと言われる。反対に不正は、利益・名誉・安全などを自分へ過剰に取り、負担を他人へ押しつける。
狭い意味の正義には、分配的正義と是正的正義がある。分配は、共同体の名誉や財産を、認められた貢献や資格の比率に応じて配る。是正は、売買・貸借・暴力・窃盗などで生じた一方の利得と他方の損失を、裁判によって均等へ戻す。交換では、異なる仕事や品物を通貨によって比較可能にし、互いの必要を満たす。
法律は一般的な言葉で定めるが、現実には例外が起きる。立法者がその特殊事情を知っていれば別の定めをしたはずだ、という場面で、法律の文字を機械的に当てはめず、その目的に沿って補うのが「公平」である。公平は法に反する気まぐれではなく、一般化によって生じる法の不足を正す、より高い正義である。
第六巻 知的な徳と実践知
魂の理性的な部分には、変わらない真理を知る働きと、変化する人間の行為を考える働きがある。真理へ至る知的能力として、技術、学問的知識、実践知、哲学的知恵、直観が区別される。技術は何かを制作する力、学問は必然的な事柄を証明する力、直観は証明の出発点を捉える力である。哲学的知恵は直観と学問を合わせ、自然や世界の最も高い真理を知る。
実践知は、人間にとって何が善いかを考え、具体的な状況で行為を選ぶ力である。健康一般を知るだけでなく、この人にこの処置が必要だと分からなければ治療できないように、実践知には普遍的な原則と個別の事実の両方が必要になる。若者は数学に秀でても、人生経験が少ないため実践知を持ちにくい。
目的が悪ければ、目的達成の巧みさは実践知ではなく、ただの「抜け目なさ」になる。よい性格は正しい目的を見せ、実践知はそこへ至る正しい手段を示す。完全な徳と実践知は互いを必要とする。規則を知るだけでも、善意だけでも足りない。よく見る目と、よく望む性格が結びついて初めて、状況にふさわしい行為ができる。
第七巻 分かっているのに負ける
徳と悪徳の間には、自制と自制のなさがある。自制のある人も強い欲望を感じるが、理性の判断に従う。自制のない人は、何が正しいかを知っているのに欲望に負ける。ソクラテスは、本当に知っていれば悪く行えないと考えたが、アリストテレスは、知識を持っていても使っていない状態があると見る。眠り、酔い、怒りの中で詩を暗唱できても意味を生きて理解していないように、情念の中では知識が働かない。
自制のなさは悪徳そのものとは違う。悪徳な人は悪い目的を正しいと思って選ぶが、自制のない人は自分の行為を悪いと知り、後悔できる。そのため治る可能性がある。激しい感情にすぐ動くタイプと、考えながら快楽に引きずられるタイプがあり、後者のほうが改めにくい。
快楽がすべて悪いわけではない。自然で必要な快楽もあり、善い活動に伴う快楽はその活動を完成させる。問題は、身体的快楽を本来の範囲を越えて追い、ほかの善を押しのけることである。苦痛から逃げるため快楽へ走ることも、自制を崩す原因になる。
第八巻 友情の三つの形
友情は徳であるか、少なくとも徳に伴うものであり、人生に欠かせない。富や権力があっても友人がいなければ、その善を誰のために使うのか。若者には過ちを避ける助け、老人には支え、働き盛りには共同の行為を与える。友情は都市も結びつけ、立法者は正義以上に人々の親和を気にかける。友人同士なら多くの場合、裁判による正義を必要としない。
友情には、利益の友情、快楽の友情、善さにもとづく友情がある。役に立つ間だけ、楽しい間だけの友情は、相手そのものではなく自分が受け取るものを愛しているため、条件が変われば終わりやすい。善い人同士の友情は、相手の善さを相手のために愛する。利益と快楽も含みながら、それ以上に互いの人格を望むため、時間をかけて育ち、長く続く。
完全な友情には、共に暮らし、互いを知り、善意を行為で確かめる時間が必要である。多くの人と親しくはなれても、完全な友を大勢持つことはできない。立場が不平等な親子、夫婦、統治者と市民の友情では、同じ量を返すのではなく、役割に応じた愛を返すことで均衡が保たれる。共同体の政治体制にも、それぞれ対応する友情と正義がある。
第九巻 友はもう一人の自分
友情が壊れるのは、期待した利益や人格が違っていた時である。相手を善い人だと思って愛したのに大きく変わった場合、関係を終えることはありうる。ただし、改善を助けられるなら友人として試みるべきだ。昔の親しさを完全に忘れ、初めから他人だったかのように扱うのもふさわしくない。
善い人は自分自身と調和し、自分の理性的な部分のために善を望み、自分と一緒に過ごすことを喜ぶ。友人に対する善意は、この健全な自己関係から広がる。友は「もう一人の自分」であり、友の行為を見ながら自分の人生も理解できる。悪い人は魂の内部が争っているため、自分自身から逃げ、他人とも安定した友情を結びにくい。
自己愛にも二種類ある。富・名誉・快楽を自分だけ多く取ろうとする人は非難される。しかし最も正しく勇敢な行為を自分に割り当て、理性の最善に従う人も、深い意味では自分を最も愛している。その人は友や祖国のために財産や命を差し出しながら、自分には気高い行為を選ぶ。善い自己愛は利己主義の反対であり、他者への善い行為の源になる。幸福な人にも友人が必要である。幸福とは活動であり、善い活動を共に行い、互いの存在を喜ぶ友がいれば、その生活はより完全になる。
第十巻 快楽・観想・教育
快楽は動きや不足の補充そのものではなく、よく働いている活動を完成させる。見る力と美しい対象が最良の状態で出会う時、見る活動には固有の快楽が伴う。異なる活動には異なる快楽があり、善い活動の快楽は善く、悪い活動の快楽は悪い。何を楽しむかは、その人の性格を示す。
幸福が徳に従う活動なら、最高の徳に従う活動が最も幸福である。人間の中で最も高いものは知性であり、真理を観想する活動は、それ自体を目的とし、比較的自足し、長く続けられる。政治や戦争の立派な行為も必要だが、目的や負担を伴う。観想の生活は人間を越えて神的に見えるほど高い。それでも私たちは身体と共同体の中で生きるため、性格の徳、友人、健康、必要な外的条件を捨てられない。
倫理を聞くだけで善い人にはなれない。多くの人は理屈より快楽と苦痛に動かされるため、幼い時から善い習慣を作る法律と教育が必要である。家庭だけの命令より、共同体の法のほうが継続する力を持つ。どうすれば人と都市を善くできるかを知るため、アリストテレスは次に政治体制と法律の研究へ進もうとする。倫理学は個人の心構えだけで終わらず、『政治学』へ続く。